I'd leave alone : ”No Time To Die”

"There's just no time to die"

 

”No Time To Die”を観たのでその感想です。

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当たり前のようなことですが、主題歌には「テーマ(主題)」が詰まっているわけです。007シリーズ”No Time To Die”の主題歌は映画と同じです。

冒頭の言葉は曲の盛り上がりでててくるフレーズです。ま、タイトルなんだから当たり前かもしれませんが。

 

”I'd leave alone”は曲開始から2番目のフレーズです。”I should've known"=「知っていたはずなのに/わかっているはずなのに」ときて、「一人でいるべき」と続くわけですね。この映画でのジェームズ・ボンドは、いろいろなところから「leave alone」でなくなる話なのかもしれません。

これまでのジェームズ・ボンドは「時として意に沿わない上司の命令には逆らう」「なんなら同僚の忠告も無視する」「かといって、敵対する組織の勧誘や屈服にものらない」という「一匹狼」の存在でした。

ファッションは、スーツやタキシードで、むろんそれがジェームズ・ボンドらしさでもありましたが、「古臭い、お決まりの」感も否めませんでした。"Skyfall"での、「時代遅れ」「復活」「2匹のネズミ」などのテーマ性は、制作サイドも自覚していたからこそ盛り込まれたテーマだったのかもしれません。

 

”No Time To Die”では、”Spectre”結末での通り、ボンドは引退しています。「裏切り」を感じたことによる「別離」と、かつての友人からの仕事の「依頼」での出来事から、ロンドンへと戻ってくるのですが、もう過去の人扱いをされます。

今回のボンドが、"Skyfall”の「復活」と大きく違うのは、もはや一匹狼ではないことです。「ボンドが家族を持つ」、これまでなかった局面。

英国エージェントであるボンドは、ブロスナンボンドの”Die Another Day”でのパハマやクレイグボンドの”Spectre”のイタリア~オーストリアなど、長期的(大局的な作中の見方)では国家や任務に忠実なのですが、「やられたらやり返す」の『半沢直樹』ではなような、場面場面では、唯々諾々と従うことをよしとしないことも少ない人物です。

 

M-上司のコードネームーは、ボンドの意に沿わない命令をするも彼が従わないため、翻弄され、頭を抱え、最終的にボンドを支援していきますが、これはボンドが有能で正しかったという面もある一方で、上司だから、という点もあるのではないでしょうか。つまり、庇護・支援する対象としての部下、というわけです*1

 

ボンドは、いままで「一匹狼」でいられましたが、自分が庇護すべき存在がいたことが明らかになります。「父になる」ことで、「弱み」は当然、ボンドの敵に利用されるわけですが、敵に娘を人質されたボンドはこれまでとは打って変わって弱い存在として示されてます。頭を下げるふりして反逆の一手にでることはこれまでもありましたが、同じものとしては、あまりに長く弱弱しい頭を下げるシーンが示されます。(ちなみに、さすがにただ、頭を下げるだけなく、反撃に出るのですが、その反撃はあっけなく、かわされてしまいます…)

「一匹狼」としての終わり、ハリウッド映画のような一家団欒ではない結末を提示したのは、すなわち”I’d leave alone”が終わり、もはやボンドとしていられなくなったからかもしれません。

 

こう書くと、あまり本作を評価していないように見えますが、冒頭の「アストンマーティン・DB5」でのカーチェイスキューバでのパロマとの共闘シーン、ノルウェイ~敵のアジトと、緩急つけつつも目を離させない映画で、3時間近くあるのに長さを感じさせない映画となっていましたし、「V8ヴァンテージサルーン」が、登場するのも、これまでのボンドカーを知っている方なら、注目されるポイントでしょう。

「クレイグボンド」を見届ける意味では、満足度が高いと思いますし、私もそう感じました。一方で、これまでのボンド史からの「伝統」を感じたい人にとっては上記のような「スパイス」が余計なものに感じられたかもしれません。

 

この映画で「最もボンドっぽいところ」は、タキシードを着てスペクター幹部会に乗り込むパロマとの共闘シーンになるかもしれませんが、これが007としての仕事ではなく、フェリックス・ライターから依頼された仕事というところに、ボンドが過去のものとしつつある点が示されているのかもしれません。音楽もCuba Chaseと題された、バトルの緊迫性もありつつ、楽しげでもありそうな音楽なのも印象的です。

また、冒頭シーンでは、ベージュのコットンスーツにネイビーのニットタイ、ロンドンシーンでのグレイスーツとネイビースーツとスーツスタイルも健在ですが、クラシック回帰の流れを受けてか、ベルトレスパンツだったように見受けられました。ちなみにグレイスーツは”Skyafall”と、ネイビースーツは”Spectre”と同じものかもしれません。一方でタイとシルエットは変わらずでこれはクレイグボンド通停のスタイルなのでしょうか。

 

クレイグボンド最後の作品ということで、いわれるのは「次のボンド」ですが、内容的には、今作を受け継ぐのでしょうか、あるいは無視するのでしょうか。リブートされ始まった”Casino Royale”~”No Time To Die”ですが、リスタートもあるのでしょうか。

ほかのキャラクターがコードネームであるため、代替わりしても「〇代目の●」であるため、違和感がないわけですが、ボンドだけが「007」であり「ジェームズ・ボンド」個人であるため、基本的には継承せざるを得ないわけです。

 

「スーツやタキシードを着た早中なスパイ映画」がいよいよ現実離れしてきた点もどうしていくかを考えるタイミングなのかもしれません。

同じようなメンズドレススタイルでの戦いを扱う『コードネーム U.N.C.L.E.』は1960年代の冷戦時代を舞台にすることで、その点をクリアするとともにファッションやデザインでのクラシック回帰・レトロブームが追い風となっていました。また、『キングスマン』シリーズも最新作は、これまでより時系列を前の設定にしています。

どちらも、ファッション含めカジュアル化と多様化が進む現代とは地続きではない作中世界にすることで「現実離れしている」と感じさせない設定になっています。

 

ちなみに、俳優の変更されていくことについては、伊藤計劃『The indiffrence engine』に収められている「情報陛下の所有物」「From the Nothing, With Love.」という007モチーフ作品では、SFテクノロジーによって俳優の代替わりと「ジェームズ・ボンド」キャラクターの連続性を説明するするどいSF作家の着眼点と発想が表れていますが、そういた継続と分断を考える必要性があるかもしれません。

 

新しき世の若人は目覚めるのではない。古来より幾重にも重ねられてきた古き鎧が、あるときその役目を終え、喪われることにより、元々そうで在るべき本質を露わにする。新しき人はそうして目覚める。

 

私の意識に安らぎあれ、と。

伊藤計劃From the Nothing, With Love.」

*1:職場の「上司は選べない」といわれ、新卒での配属での人間関係が「あたり」か「はずれ」かは、「配属ガチャ」とも呼ばれますが、上司からすれば「部下も選べない」ともいわれています。ある程度の人事権があるとはいえ、鶴の一声でも発動できなければ、100%望みのままの人材をセレクトするのは難しいですし、たとえCEOであっても、その会社の就職・転職志望者の中で最も自分のチームに合う人がいるのか、実際に働く中で期待通りか、体調やプロジェクトなど人や取り巻く環境のステータスが常に変動していくなかで、ガチャ性をゼロにするのは難しいでしょう