東京字変
東京という街は、歴史としては江戸時代から地続きでして、東京の文化性は、江戸文化を源流とするものも多くあります。
江戸ではなく、東京となった瞬間、それは慶應4年7月17日に時の明治天皇から「江戸を東京都する」と発せられた瞬間でしょう。
「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」と呼ばれ、内容から「東京遷都ノ詔」とも呼ばれるそうです。
江戸(東京)が「首都」(と明確に決められてはいませんが事実上)となったのは、京都や大阪は首都機能がなくても衰退することはないが、江戸は江戸幕府の行政の中心地として人々が集まり、世界規模の歳になったのに離散・衰退してしまう、と危惧されて決められた、といいます。
そういう流れで江戸から東京となりましたが、ところで、「東京」はこんにち、”Tokyo”と発音します。2020年に向けた五輪への活動でも”Tokyo”をネーミングに含んだロゴがたくさん出ています。
しかし、「江戸」から「東京」に変わったあたりでは、「とうきょう」ではなく、「とうけい」と呼ぶことも決して少なくなかったようです。
これがなぜに「とうきょう」になったのか?それは教科書などで振仮名が「とうきょう」と振られていたからのようです。
同様の話は、例えば「高田馬場」でも見られます。この街・駅名の読みは「たかだのばば」が一般的だと思いますが、「たかだばば」が鉄道開業時は一般的だったとか。駅名として採用されたのが、「たかだのばば」影響で統一化がなされていったようです。
読みの揺らぎは、同じものを指す際の揺らぎであり不便の元となりますが、多様性の証でもあるように思えます。
多様性を剥いでしまった例としては、東京の町名の統一があるでしょう。
田町、といえば、三田とも呼ばれる駅を中心としたエリアの一角をさしますが、田町という町名はありません。正確には田町という町名はあったのですが、現在は芝5丁目または、三田3丁目となっており、田町という町名は存在しません。
田畑から町になったので、田町という町名だったのですが、いまや駅名のみで、由来を語るのはそれだけです。
赤坂の東急プラザの付近は赤坂田町という町名でしたが、それを残すのは通りの名前くらいではないでしょうか。「溜池山王」の名前が指すように溜池があるような湿地から田畑にした町だから田町、ということのようです。
こういった町名の統一には反対意見も多い一方で自治体側も由来の書いた案内板などで歴史を繋げる例が多いようです。
地名こそ、その土地の歴史を語る。ニュータウンでは「丘野台」といい、この三文字のどれかが付いている地名はニュータウン開発の時の地名とも言いますが、近くの古くからの地名があったり、ニュータウン開発歴史だったりと、それでも歴史はあるはず。いろいろと住んでいる場所の過去へダイブしてみるのも面白いかもしれません。
God is in the details
「神は細部に宿る」という言葉、ファン・デル・ローエというモダニズム建築の大家が言った言葉として有名です。「細かいところも、手を抜くな」「誰も気しないような細部を完璧にしてこそ、全体も完璧なものとして仕上がる」というような意味で用いられがちですが、「(シンプルに規定されたデザインでは)全体設計に寄って細部も規定される」といった意味の解釈もあるそうです。
この建築家、”Less is more”という言葉も残しており、シンプルな装いこそ、味わいがあると思う人間としては、含蓄のある言葉だと感じ入ります。
これはミヤギコウギョウの「フジバナ」の側面です。Uチップとしてかなり価格が上のドーバーとも比較しても劣らないという評価を聞きますが、たしかによくできたモカシンだと思います。
また、ソールとの出し縫いの間隔もとても狭いものです。
対して、こちらはCentralのクォーターブローグ。ミヤギコウギョウよりは間隔が空いている出し縫いで。まあ、そうは言うものの、それでもこうして見ると充分な間隔ではないでしょうか。
まだ履いてないためシワがなくキレイですが、使っている革はミヤギコウギョウより上質なイメージがあります。
こちらはChurch'sの同じく側面です。縫いの間隔はそこまで緻密!という感じではないですが、らしいといえばらしいですね。(雑な造りではないですが、こういうのが特徴として活きるブランド、日本ではまれではないでしょうか)
こちら、2枚ともクロケットアンドジョーンズのもの。1枚目が高島屋別注の、ハンドグレード仕様の靴ですが、アウトドアブーツということもあってか、2枚目のBeams別注のスタンダードライン仕様のアンラインドチャッカブーツよりも縫いピッチは広めです。逆に、チャッカブーツのほうは縫い目が見えないような仕様になっています。
そして、こちらはエドワード・グリーン。ピッチの目は細いですね。
ピッチ一つ比較してみてもそのメーカーの哲学が見えてきます。
地の系譜学、あるいは
『ブラタモリ』、『東京スリバチ地形散歩』、『アースダイバー』といった土地の記憶を探る動きが21世紀に入ってからというもの、盛んです。もちろん、20世紀~21世紀にかけての書籍やメディアでの展開などといった推移とともに語るべきコトでしょうし、そういったものは特にないのですが、『ブラタモリ』全国編がゴールデンタイムで好調な視聴率でもって支持されていることを鑑みると、「1ブーム」として片付けてオシマイな傾向ではないと言えるでしょう。
ミシェル・フーコー『知の考古学』は、ニーチェの「系譜学」(『道徳の系譜額』)を元に、その時代・時代の、知の視座ー無意識に人々が持っている世界の見かた:いわゆるエピステーメー-を考察していく書物です。著者は当時の書籍などを元に、どのような世界の見方:エピステーメーを持っていたかを、解きあらわします。のちにここからフーコー著作の関心は「系譜学」へ移っていくのですが、それはひとまず置いておき、『知の考古学』の痕跡=テキストから知をうかがう、というのはまさに遺跡の痕跡や、書かれた史料から時代の様子を推定する「考古学」的アプローチそのものといえます。
冒頭であげたテレビ番組や書籍が人気を博するのは、何気ない通勤・通学・生活の土地にストーリー・物語があることが、その一つでしょう。現在見られる「道路の曲がり具合」や「土地の形状」などから、歴史を紐解いていくさまは、考古学的かも知れませんが、ストーリー・物語として、推察し、空想し。楽しんでいくさまは科学的ではない、のかもしれません。あくまで可能性があったり、ストーリー的な見栄えがあったとしても、他の論証がなかったり、否定的な要素があれば、そのストーリー=説の断定はできないし、ましてや、否定的な要素が多い場合、それは、説としては弱い立場にあるからです。
科学的な学問として確立しているのではなく、空想や物語として楽しむこと。それはれっきとした学問である「考古学」としては間違いなのかもしれませんが、「路上観察学」のようなアヤシイジャンルの学としては「アリ」なのではないでしょうか。(決してけなす意味ではなく)
学問の裾野を広げる「学」、として、ある種のロマンチックな推測な類を「地の系譜学」と暫定的に呼ぶことにしたいと思うのです。土地の栄枯盛衰を考古学的な「見える」ものだけではなく、「見えない」ものに関しても追い求めるアマチュアなこの学。アマチュアだからこそ、実態はなにもないかもしれませんが、考古学や地理学の間にあるこれらをなんと呼ぶのか?といったところで、書店での本探しや、カテゴリ探しに苦労する身としては、こういった要請に答えてみよう、という試みをしたく、「地の系譜学」とか、「土地を考える」で「考地学」とか言ってみたくなるものです。
監獄の壇場:映画『ロブスター』について
ゲーテの名言にこんなのがあります。
ー人生は全て次の2つのことから成り立っている。「したいけれど、できない」「できるけれど、したくない」ー
恋愛においてこれを体現したのがこの『ロブスター』という映画ではないでしょうか。
『ロブスター』の世界では、恋愛を前提とした関係性を持てない人間は社会から排除されます。具体的には、動物にさせられます。
主人公が妻と別れ、それ故にホテルに連れて行かれます。そこでは、独り身の男女がカップルになる場所であり、ここで45日以内に配偶者を見つけられないと、動物にさせられてしまうのです。
特に世界観について説明があるわけではありません。
主人公がホテルで服を脱がされ、「制服」とも呼べるような、ホテル内で画一的な装いでいることを求められていること、森に潜む人間を麻酔銃で「捕獲」すると褒賞としてホテル滞在日が延びること、さまざまなお上の講習会がつまらないようにパートナーを見つけるとすばらしいと謳う講習会はやはりつまらないことを見せつけることで世界観を魅せていくのです。
そうそう、狩りのシーンはひときわコミカルですが美しいものです。
制服のように一律に着こむ、ワンピーススカートやブレザーがスローモーションで舞っているシーンはアートチックなシーンとして仕上がっています。その一方で、ワンピース姿で狩りをおこなう、というちぐはぐな微笑ましさも持っているシーンです。
「恋愛か、死か」といった世界で、主人公とその友人がおこなった生存戦略は「恋愛関係を偽っておこなう」というものでした。何を偽るのか?それは、ある女性と自分が似た者同士である、ということです。鼻血が出やすい女性にアプローチをする主人公の友人は、影で無理やり鼻血を出すことで、類似点をつくりだす。主人公は「感情がない」と言われる女性に、他者への無関心さを示すことで類似点をつくりだす。こういった「取り組み」で女性へと接近し、恋愛関係を創りだします。
しかし、主人公の企みは破綻します。そこで主人公はホテルを飛び出し、森へ向かいます。森は狩りがおこなわれていた場所で、その狩りの対象となっていた人々が暮らしている場所です。彼らは恋愛至上主義の社会を嫌う者たちで社会の外側=森で暮らしています。
そこに主人公が飛び込むことで明かさせれるもう一つの世界なのですが、アンチ恋愛至上主義の非リアたちのフィールドでは恋愛はご法度なのです。恋愛を強制される社会では恋愛ができなった主人公は、ここでは恋愛をします。自分と同じく近眼の女性と恋に落ちるのですが、恋愛禁止主義の場所、恋愛をひた隠しに生きます。
「恋愛をしなければいけない社会」「恋愛をしてはいけない社会」どちらもシンプルで極端な原則を掲げています。両極端な原則を掲げる社会に、人は対応はできないのかもしれない、という示唆を含みつつ、主人公は冒頭のゲーテの言葉を地で行く行動をおこします。
ここで浮き上がってくるのは恋愛というよりも、自由について、ではないかと考えます。強制されたものは楽しいものであれ、うまくいかないのに対して、禁止下のもとでは秘匿する楽しみとしてある。現在、現実では恋愛はそれなりに繁盛していると思いいますが、それは強制も禁止もされていないからでしょう。
現実にない二項対立をたくみに描くことで、ふだん人が意識していないところへ目を向けさせる作品です。
そうそう、ホテルで貸与される服はグレーのスラックスにネイビーブレザー、ストライプタイに白と薄いブルーのシャツ、黒の革靴です。没個性的、しかして、パーティーなども開催される場所としての服装としてこれらがピックアップされているのは象徴的かもしれません。
"Old dog, new tricks.":セントラル製靴のクォーターブローグ
以前紹介したUnion Works Blogの男の仕事靴のエントリ。
こちらを参考にしつつ、黒靴を集めていたのですが、ようやく「完成」しました。(と言いつつ、ダブルモンク、サイドエラスティックなど「寄り道」をしていますが)
キャップトゥ、プレーントゥ、セミブローグ、フルブローグとここまで揃えてきました。今回は、クォーターブローグを購入。パンチドキャップトゥではないですが、同じくらいの位置づけの、キャップトゥほどかしこまっていないけれど、セミブローグほどカジュアル装飾がついていない靴です。
メーカーはセントラル製靴。ワールドフットウェアギャラリーがここと組んで展開しているオリジナルブランド「Central」。
以前は「初秋:Hatsuaki」というモデル名のサイドエラスティックシューズを購入し、タイトなミヤギコウギョウよりもさらにタイト…というよりは造りが「細い」らしく、サイズを1サイズ上げることになりました。(それでも、全長はミヤギコウギョウとCentralでそんなに変わらないようだったので、細めと言うよりは小さめ、なんでしょうか)
今回のクォーターブローグは「霞:Kasumi」という名前のようで、サイズはミヤギコウギョウよりもハーフサイズアップで収まりました。インソールの部分が藍色で、ソールがヒドゥンチャネルのカラス仕上げであるところも、「初秋」と同じ仕様。
ラストは「初秋」がややスクエアトゥなのに対して丸いラウンドトゥになります。セミスクエアトゥもそれはそれでかっこよいのですが、基本的にはよりクラシックに見えるラウンドトゥが好きで、特に、ミヤギコウギョウが持つラウンドトゥのさじ加減が好きなため、購入に踏み出す大きな理由となりました。
なお、上からみた形状はラウンドトゥですが、横から見るとラウンドトゥの立ち上がりが、特徴的で、チゼルトゥ的な形状をしているのがわかります。
Cetnralブランドのキャップトゥは2週類あり、1つはセミスクエアトゥ、もう一つがこのクォーターブローグと同じラストのようです。キャップの短さ・小ささからミヤギコウギョウのキャップトゥと似ているように見えることもありますが、こういったフォルムの面でだいぶ違いが出ていると感じます。
クォーターブローグのピンキングは、外に向けて「ギザギザ」があまり目立たないパターンのもの。あるものに比べていくぶん、スマートに見える、のではないでしょうか。
クラシカルなデザインですが、細部を見るとこだわりが見えます。
先に上げた5足の黒・内羽根靴が誰しも通るところ。マストであることもうなずけます。その一方で、自分だけの必須5足なり、お気に入りの○足というのができてくると思います。その境地まで歩いて行きたいものですね。
すべて真夜中の仕事人たち:ネクタイのこととか
「夜景、キレイだね。」
そういうドラマの夜景シーンは、湾港が多いのでしょうか。山が多いのでしょうか。はたまたどこかの高層ビルのレストランでしょうか。夜景の明かりはオフィスビルの残業景色、とのネタはよく耳にしますが、残業の時のドラマ的なポーズでよく見るのが、ネクタイを緩める図。
もはや、マンガ的、記号的な「もうひとがんばり」の動作ですが、逆に考えると彼らはネクタイを締める職場に居るということです。
ネクタイ。この梅雨明けという今の時期を考えれば暑苦しくなるだけのキュークツなブッタイ。しかして、これがある/ないではスーツルックスの「締まり」も変わってくると感じます。
映画やドラマ、マンガのネクタイを締めているキャラクターからタイを取る姿を思い浮かべるとなんだか、間の抜けた印象にはならないでしょうか。あるいは、冬場はダンディな職場のオジサマがクールビズ期間にもっさり見えたりするのも、このタイの存在によるものが大きいのではないでしょうか。
もちろん、ノータイはノータイで肩肘を張らないで済みますし『Sherlock』のシャーロック・ホームズはほぼ常にノータイですが、カッコイイ身のこなしをしています。ですが、その兄マイクロフト・ホームズがトラッドな装い-タイに三つ揃えで、アンブレラと言いたくなる傘をステッキ代わりに持っている-姿は、トラディショナルな装いに憧れを持つ身としては、理想的な装いとしてうつるはずです。(逆にマイクロフト・ホームズに惹かれつつも、なぜかシャーロックのノータイや、ジョン・ワトソンのカジュアル姿もしっくる来ることに気付くのかもしれません。)
逆に考えたいのがシャーロックがシャツの第一ボタンまで留めている姿。ちょっと魔の抜けている感じがしませんか?
ノータイ→リラックス的といったことからも、ノータイルックと聞くとシャツの第一・第二ボタンを外した装いばかり想像がつきますが、上(第一ボタン)まで締めているとそれは、アンチリラックスということなのか、なにか物足りなさ=タイがない、といったことに行き着くのではないでしょうか。
タイがアンチリラックスの象徴とするのならば、やはりタイはビジネス・フォーマルなど格好つけが必要とされるの場面には必要なアイテムなのかもしれません。
そうして考えてタイを見渡してみると、いろいろとあります、無地、キャラクターもの、チェック、ストライプ…
慶事によくつかわれるのが(日本だけのならわしと悪評高い)白のネクタイ、弔事が黒のネクタイ。スーツはともに黒無地。スーツは無地が多く、特に黒のタイも無地が多いように、無地=ソリッドであることはフォーマル性の高いものです。
そのため、無地のタイが格の高さで言えば一番高いといえます。そのなかでも、スーツと同じく、一見すると黒に見えるようなネイビーや、グレーが格式高いむきのようです。ホワイトシャツや薄いブルーシャツに無地のネイビースーツ、そしてネイビータイという装いや、英国や仏国の首脳でよく見られる装いです。スーツの装いとして最も格式高いこの格好、simple is bestを体現しているといえますが、これを、一介のニホンのサラリーマンがやってしまうと、理解のない方々には「喪服的」と映りかねません笑
そのため、ネイビーソリッドタイの明度を明るくするなどの「対策」は必要かもしれません。ニットタイであると素材がカジュアルなため、そう思われることは少ない、でしょうか。
次にフォーマル度合いが高いとされるのが、無地の次に無地に近いもの、ドットの小さいドットタイとなります。その次がドット以外が規則正しく並ぶ小紋タイ。ストライプ……となっていきます。
よく国際的にはストライプはNGと耳にしますし、そうなんでしょうが、日本ではフレッシュなイメージがあるのも確か。日本国内でなら、その辺は日本スタイルとして装うのもありではないでしょうか。
ちなみに個人的な所有ネクタイはほとんどブルー〜ネイビー系ばかりです。同じようなスタイルに行き着いてしまう人間なのですが、それを貫けばスタイルとなるでしょうか。
布切れ一枚であることは確かですが、ポケットチーフと同じく、わずかな面積が変える装いの世界です。
License to buy:スーツを買うときの個人的ポイント
スーツを買う時、見るポイントはいろいろあります。