グランドエスケープ、ラン

きのこのこ、のこ、げんきのこ

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<もちろん、ネタバレがあります>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


君の名は。』は、映像はもちろんきれいだし、大団円といえばいいのか、雪の西新宿のすれ違いで『秒速5センチメートル』か?と思わせておいて、まだつつくんじゃよとなるあたり、良いストーリーだな、という気になる、your nameは、主人公とヒロインの二人にはこれからがあるのはもちろんわかる一方で、ちゃんと「不思議な縁で出会った男女が結ばれ」エンディングを迎える作品です。

一方、『天気の子』は、何かを得る代わりに何かを失う話です。ヒロインを得る代わりに東京の天気を失った。獲得と喪失こそが『天気の子』をゼロ年代っぽいとか、セカイ系っぽいといわしめるところではないでしょうか。『君の名は。』でも糸守町は消失しましたが、彗星の落下は避けられない運命であり、不可避な破滅そのものとしてあり、変えうる「いかに人を非難させるか」が焦点になっていったのに対して、本作では、陽菜と東京の天気の二者択一です。こここそが『君の名は。』になかった「獲得と喪失」なのではないでしょうか。
大団円は物語の結末としてきれいな形でありますが、「獲得と喪失」のエンディングもまた、カタルシス効果がある結末であり、すべてが欠けずにうまくいった場合よりも、より獲得されたものが強調されるのではないでしょうか。「ゼロ年代作品に影響受けた人たち(というくくりも雑ですが)」が「新海が帰ってきた」というのもの、この二者択一によるところで、セカイ系っぽいというのもそこでしょう。

セカイ系」っぽいという考えはたしかにこの映画を見てすぐに思いましたし、陽菜の能力は、「雨の晴れ間を作る」のみならず、「雷を落とす」シーンから天候を左右するものであり、セカイを動かすものです。
しかし、「セカイ系」についての定義もあいまいなので、なんともですが、wikipediaにあるような「自分のコミュニティの小さい“セカイと、大きな世界が、国家や社会機構の存在無くつながれ、自分たちの一挙手一投足が世界の命運を左右する」という定義に照らし合わせれば、悪い意味で、警察や歌舞伎町のチンピラといった両極ともいうべき存在をはじめ、「社会の構成員」がバンバン主人公たちに干渉してくる姿はセカイ系とはいいがたいのではないでしょうか。

興味深いのは操れるのは「たかだか天気」というところです。誰かをカタツムリに変えられるわけじゃない。雨の日ってだけでは、東京という都市やあるいは日本の社会機構、個々の生活は脅かされないからです。傘を持って通勤や通学をし、洗濯物を部屋干しすればいいわけで、日常の背景が変わるくらいの認識だと思います。「晴れ女」の仕事の際に、依頼をしに来る理由はどれも、個人的なイベントへの想い‐フリマ・結婚式・花火大会-といったことで、「●●の生死にかかわるから」なんて物騒な依頼は来ませんし、依頼も「ホンマに晴れるんかいな」のスタンスで頼むものが多いわけです。

でも、実は陽菜にとっては存在そのものを左右するFatalな問題なわけです。多くの人にとって「明日晴れたらいいな」ていどの問題が、陽菜にとっては「命にかかわる」のです。この構図は、帆高が警察に代表される社会機構との対立軸なのかもしれません。

 

この意味で考えると、「たかだか天気」の「真夏の夜の雪」によって、定時運行で都市の歯車である東京の電車が止まるのは象徴的かもしれません。

この停止から日常への復帰―東京が晴れの夏に戻りつつある―間隙を縫って、帆高は逃げるために、ここから逃避行=エスケープをするわけです。低温から高温への「たかだか天気」に人間の体調は左右されるわけで、まだ日常に完全な復帰ができないこの状況で、帆高をとり逃してしまうのも致し方ないことなのかもしれません。帆高の走りは、それはこれまで、陽菜や凪と逃げ回っていた「行く当てのない」逃避行ではなく、目的へと走り出す逃避行なのです。

 

新宿近郊が舞台として出てくる『秒速5センチメートル』と、『言の葉の庭』、『君の名は』そして『天気の子』ら近年の作品が大きく違うのは、「クライマックスに走り出すこと」でしょう。この走りは「再会」であり、切断されつつある関係性の修復のために走るのです。「安定した天気のもと、東京の電車に象徴される安定した社会」よりも「唯一の人」を帆高は選択するわけです。

この選択の結果、東京はこれまでの姿を保っていられなくなってしまいます。「これまでの安定した社会」ではいられなくなり、「たかだか天気」の連続によって、街並みは変更を余儀なくされてしまいます。

しかし、3年後、雨で東京の四季はどうにかなったはずですが、背景で女学生がお花見を楽しみにしているていどには、街は「たかだか天気」に左右されることはなくなっています。二者択一の(小さな)決断は、社会そのものを変えてしまったけれど、二人にとって「大丈夫」な街なのでしょう。