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スパークル:物語の戦争戦術(アニメ『幼女戦記』と『ガールズアンドパンツァー劇場版』から)

戦争から、きらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレクサンダーやシーザーやナポレオンが、兵士たちと危険を分かち合いながら、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する、もうそんなことはなくなった。これからの英雄は安全で物静かで物憂い事務室にて、書記官たちに囲まれて座り、一方何千という兵士たちが電話一本で、機械の力によって殺され、息の根を止められ、これから先に起こる戦争は女性や子供や一般市民全体を殺すことになるだろう。やがてそれぞれの国には、大規模で際限のない、一度発動されたら制御不可能となるような、破壊のためのシステムを生み出すことになる。人類は初めて自分たちを絶滅させることができる道具を手に入れた。これこそが、人類の栄光と苦労のすべてが最後に到達した運命である。(『危機の世紀』)

 

かの有名なイギリスの首相チャーチル第一次世界大戦を振り返ってこういったといいます。第一次世界大戦からそれまでの戦争とは大きく変わってしまった、ということでしょうが、ミサイルや無人機で攻撃をする昨今にチャーチルが生きていれば同じことを言ったのかもしれません。

人権や捕虜という概念も希薄な昔に、そもそも戦場に「きらめきと魔術的な美」はそもそもあったのか、というもっともな指摘はさておき、いまだ健在なのは、フィクションの世界でしょう。地球のみならず、宇宙や異世界での行軍物語が人気なのは兵器や登場人物が魅力的であるだけでなく、戦略と戦術・作戦のかけひきによる「きらめきと魔術的な美」がそこにあると感じるからに違いありません。

 

終末のイゼッタ』という第二次世界大戦のスイス的な国が舞台の、弱小国家が侵攻国家から身を守る際、魔法の力を借りるというSF?アニメがありましたが、物量vs魔女ではなく、最終的には魔力は(作中の)現代兵器の上を行き、魔力の殴り合いになったので、戦略的な話にはなりませんでした。魔法が登場する1910年代のヨーロッパ的な世界を舞台にした『幼女戦記』では魔力が航空戦力として戦略・戦術上重要なポジションを占めるものでして、戦略上の話が多く出てきます。

この『幼女戦記』のアニメの最後のほうに戦況の雌雄を決するために敵勢力を右翼撤退により誘い込み、反対側左翼戦線を突破して包囲する作戦がありました。

ローマ帝国カルタゴが戦ったカンネーの戦いの作中ではたとえられていました。間エーの戦いでは、カルタゴが両翼からローマ軍を突破して中央を包囲・殲滅したからでしょう。

しかし個人的には、アウステルリッツの戦いのようにも見えました。アウステルリッツの戦いでは、ナポレオン率いるフランス軍とロシア・オーストリア連合軍が戦うわけですが、戦況に大きく有利となる数の点では連合軍がまさり、またおなじく、有利にはたらく高地をとっていたのも連合軍でした。ナポレオンはあえて、軍の一部を手薄にすることで、そこを攻め込まれているうちに、逆に、高地へと攻め入って、打ち破りました。

ようは「一見有利に見せる餌を用意し、そこへ手を伸ばしたらたたく」というわけです。『幼女戦記』では、後退した軍の後ろには工業地帯があり、敵軍としては手に入れたいものです。そこで前進しているうちに…というのはアウステルリッツの戦い的であると思います。

 

ガルパンはいいぞ」で有名になった?『劇場版』ですが、ここにもアウステルリッツの戦い的な要素がありました。

こちらは序盤で主人公サイドが「ひっかかる」のですが、高地がありがら空きなのでとりあえず確保します。しかし敵が持っていた隠し玉で遠距離攻撃されてしまい、むしろ高地にいることが標的になりやすい負の価値を帯びてしまったのです。(同時に別部隊が高地を回避して迫っており、包囲されてしまうわけですが)

 

こうした「一見有利だけれど」という状況であって逆転していく「ひらめきと魔術的な美」こそ、物語の面白さとして求められているのでしょう。「アウステルリッツ的」なものは今後も目にできそうな一方で、それが紋切り型になって「ひらめき」「魔術的な美」が消え去ることはないでしょうが、物語の作り手にはより一層の作戦立案が求められることになりそうです。

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