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Repeat after me

映画

――歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」

マルクスブリュメール18日のクーデタ」のこの言葉は、あまりにも有名ですが、なぜに二度目は喜劇(コミカル)になってしまうのでしょうか。

それは歴史として記憶されるような劇的なムーブメントにもかかわらず前例があることによってモノマネになってしまう、からかもしれません。

ヒトラーはドイツではタブー視されていますが、そんなヒトラーが現在復活したらどうなるのか?いまさら70年以上前のヒトラーの復活を信じる人はいない、卓越なる物まねとしてコミカルになってしまうに違いない。映画『帰ってきたヒトラー』では、ヒトラーはそうして人気を博していきます。

ヒトラーの思想や装いはタブー視されているとはいえ、笑いを許容できないのかといったことなのでしょうか、むしろいままでにないチャレンジングな笑いとして案外すんなり受け入れられます。その作中世界を観ているわれわれ視聴者は、生き返った(または時代を飛ばされた)ヒトラーがそっくりさんだと思われて受け入れられたり、現代社会・文化になじめないヒトラーの状況に対して、笑いを起こす。「ヒトラーモノマネ芸人として作中世界に受け入れられる一方で、70年間前から蘇り時代錯誤な動きをするホンモノの「ヒトラー、作中の受け止められ方と、視聴者の受け止められ方はややずれるものの笑いが起きるという点では同じつくりをしています。

このコミカル具合に拍車をかけているのが、過去のヒトラー登場作品にまつわるパロディでしょう。ネット動画パロディ・N次創作として有名な『最後の12日間』のパロディシーンでは、少なくない数の笑いが劇場から響いたと聞きますし、冒頭でもヒトラーが「ホンモノ」らしく「これまでの自分役の映画評」を語るというシーンがあります。また、まだ駆け出しの「芸人ヒトラーとプロデューサーが一文無しになり、「復活前」政治家の前に画家を経験しているヒトラーがヘタウマな絵を描いて稼ぐ、といったシーンがあり、笑いを誘います。

こういった笑いは、もちろん観客目線の笑いネタですが、笑えるネタをちりばめておくことで、作中「ヒトラーネタ」で大ウケする芸人のネタを笑える下地づくりになっているのではないでしょうか。ヒトラーがコミカル、ユーモラスであるいう印象を与えます。

しかし、ヒトラーのコミカルでない箇所―政治的野望を感じされる箇所―もまた、たびたび登場します。たとえば、「芸人」のドイツ道中、芸を披露することよりも、映し出されるのは、EU下での不満を感じるドイツ人との交流です。なにかしら不満を持っていることはどこのどの人にもあるでしょうが、現在の政治に関しての大きな不満が移民というトピックであることヒトラーは気づきます。

 

そんなヒトラーが人々の不満を聞いて自分の味方としていく姿は、第一次世界大戦後のドイツが不満をためていくなか、不満の解決役としてヒトラーが躍り出た状況ととてもダブります。政治不信・移民不満といった問題を理解できる・解決できるのは自分であることをアピールしていくことで、人々の指導者としての地位を確立していきます。

こうした草の根運動をおこなう「芸人ではなく政治活動家であった彼の芸人らしさが発揮されるのは、テレビの前で、でした。現代、SNSの交流などは活発ですが、彼が登場して大きく話題化する媒体はテレビなのです。そこには同じフィールドで突っ込みを入れる人もいません―スタッフや出演者との駆け引きはあるにせよ、テレビ側と視聴者は明確に分かれ、SNSで閲覧する他のユーザーから「横から失礼」されることもない―し、動画で用意に発言できる媒体として最適だったといえるでしょう。もし、これがSNSからの発信だったら「なんでも叩く人」や、「良識派」みたいな人に批判されて賛否両論といった空気にもなるかも知れません。まあ、そんなテレビでも失敗をし、批判されるのですが、逆にSNSでしたらここで「信者」と揶揄されるような人の擁護がされるでしょう。

また、ここでつまずきを描くことでそれを乗り越えた時の一体感を感じされる効果があるのではないでしょうか。

散りばめられた笑いとメディアの特色を捉えることによって単に笑いだけでなく、政治的警鐘の意味も持つ作品になったのではないでしょうか。

また、最後のオチを作中作のオチにするところで虚構を超えてきていると思わせる作品です。

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