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意味というヤマイ:『シン・ゴジラ論』意味に憑かれたゴジラ

柄谷行人『意味という病』。最初に書店の本棚でこの背表紙を見かけたとき、意味を過剰に読み解くものを嘆く話かな、と思いましたがそうではなく、意味を読み解くという行為が実は近代的なものである、といったような話でした。

フィリップ・アリエス『<子供>の誕生』には、子供と聞いていま現在イメージされる「純真さ」、「無垢」などの要素は、学校に子供が行くようになり、中世にはなかった<子供>という概念が確立するとともに産まれた、ということを述べています。こういった、われわれが当たり前と思っている概念が近代になって成立したものである、と明らかにする「近代検証もの」、思想・哲学分類に従えば「ポストモダン」といわれるような思索、としての意味を検証するのが、『意味という病』でした。



この単語を思い出したのは、とある映画を観たからです。上のようなムズカシイ話ではなく、シンプルに「意味という病」という言葉を思い起こしました。

シン・ゴジラ』。災害映画的であり、戦争映画的であり、政治映画的であり、特撮映画的であり、「シン」という字は「新・真・神・深・Sin」が当てはまるのではないか、といった多義性のある映画であります。この作品に限ったことではありませんが、語りたくなる作品というのは、いくつもの意味(の芽)があるわけで、「どの線」で語るのかがその人の興味の表れだったりもするわけです。

わかりやすいのは全てにおいて政治的な右左で語る論調でしょう。これは愛国/亡国、原発推進/反原発……といったものです。なんでも同じ路線(特に政治的な話題)に結びつける行為は、人々の共感を得ることから遠ざかるものですが、逆に書き手がその話題にしか興味のない「熱心さ」を表していると言えます。(だから良いことだ、と言われたら、苦笑いしてその人の側をスッと離れてしまいそうですが)

 

・作中トピック(行政機構、ゴジラの「侵攻」ルートなどの地理、軍事……)

・作品テーマ(主題とは何か?)

・作品構造(主人公の立ち位置や人間関係、「予兆」と「本編」、繰り返し表れるもの)

・制作者(過去作からの変遷、世代論、個人史からの読み解き)

・作品の置かれた時代や文脈(ゴジラ作品の流れ、映像作品のトレンド、世の中との関連)

といったのが、主な語りポイントだと思います。ミリオタがミリタリーについて語ったり、蒲田に暮らしてる人が蒲田について解説したりするのは当然で面白いものですが、それはやはり普段の興味や接点があるところでこそ饒舌に語れるのでしょう。

そこで人々が語るのは意味、自分には読めるコードの意味なのです。

意味、というと、大仰に聞こえますが、演説シーン一つとっても、俯瞰やアオリなど構図に注目するのか、演説者とその他の力関係に注目するのか、音楽に耳を澄ますのか、ファッションに注目するのかは、日々の「注目力」によって異なるのです。それ以外の情報は無意識に処理され、無意味とまではいかなくても意味を噛み砕かれずに次のシーンへと流れゆくのです。

そういった意味では『シン・ゴジラ』はセリフの量や登場する人の多さなど意味の洪水です。何度でも観たくなる、一度では理解できないと言われるような作品はまず自分が理解できるものから意味が読みとかれるのはもっともでしょう。

 

シン・ゴジラの解説はなにに興味を持てたか、自分自身を解説してる」という指摘は、それだけ多種多様な方向性で語ることが可能な作品である、ということを意味してそうです。

 

(かつて「人気」があった文芸の、批評という領域でまとめられ、整理された批評の手法が、ゼロ年代では「社会的な昨今のムーブメントの象徴的な作品である、この作品はだからこそ価値がある」と語ることがアニメ・エロゲーなどで活発におこなわれた。その時の哲学や思想的な考えを援用してすごいんだぞ、というのではなく、多くの人がいいぞ、となる作品が『シン・ゴジラ』かもしれない。では、何が語られるのか)

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