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地の系譜学、あるいは

ブラタモリ』、『東京スリバチ地形散歩』、『アースダイバー』といった土地の記憶を探る動きが21世紀に入ってからというもの、盛んです。もちろん、20世紀~21世紀にかけての書籍やメディアでの展開などといった推移とともに語るべきコトでしょうし、そういったものは特にないのですが、『ブラタモリ』全国編がゴールデンタイムで好調な視聴率でもって支持されていることを鑑みると、「1ブーム」として片付けてオシマイな傾向ではないと言えるでしょう。

 

ミシェル・フーコー『知の考古学』は、ニーチェの「系譜学」(『道徳の系譜額』)を元に、その時代・時代の、知の視座ー無意識に人々が持っている世界の見かた:いわゆるエピステーメー-を考察していく書物です。著者は当時の書籍などを元に、どのような世界の見方:エピステーメーを持っていたかを、解きあらわします。のちにここからフーコー著作の関心は「系譜学」へ移っていくのですが、それはひとまず置いておき、『知の考古学』の痕跡=テキストから知をうかがう、というのはまさに遺跡の痕跡や、書かれた史料から時代の様子を推定する「考古学」的アプローチそのものといえます。

 

冒頭であげたテレビ番組や書籍が人気を博するのは、何気ない通勤・通学・生活の土地にストーリー・物語があることが、その一つでしょう。現在見られる「道路の曲がり具合」や「土地の形状」などから、歴史を紐解いていくさまは、考古学的かも知れませんが、ストーリー・物語として、推察し、空想し。楽しんでいくさまは科学的ではない、のかもしれません。あくまで可能性があったり、ストーリー的な見栄えがあったとしても、他の論証がなかったり、否定的な要素があれば、そのストーリー=説の断定はできないし、ましてや、否定的な要素が多い場合、それは、説としては弱い立場にあるからです。

 

科学的な学問として確立しているのではなく、空想や物語として楽しむこと。それはれっきとした学問である「考古学」としては間違いなのかもしれませんが、「路上観察学」のようなアヤシイジャンルの学としては「アリ」なのではないでしょうか。(決してけなす意味ではなく)

学問の裾野を広げる「学」、として、ある種のロマンチックな推測な類を「地の系譜学」と暫定的に呼ぶことにしたいと思うのです。土地の栄枯盛衰を考古学的な「見える」ものだけではなく、「見えない」ものに関しても追い求めるアマチュアなこの学。アマチュアだからこそ、実態はなにもないかもしれませんが、考古学や地理学の間にあるこれらをなんと呼ぶのか?といったところで、書店での本探しや、カテゴリ探しに苦労する身としては、こういった要請に答えてみよう、という試みをしたく、「地の系譜学」とか、「土地を考える」で「考地学」とか言ってみたくなるものです。

 

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